志村けんの素顔は?ドリフへのきっかけが面白い!いかりやさんへの想いは?

1950年、東村山市に3人兄弟の末っ子として生まれました。家庭に笑いはなかったそうです。

志村けんと父は、小学校の教頭をしていて柔道も師範をしていて5段だったといいます。

父の印象は恐ろしいだけでなく、厳しく、冗談も通じない人だったといいます。

そんな中でもいたずら好きだった志村けんさんは、先生の家の子供とレッテルを貼られていただけにプレッシャーを感じていたというのです。

お笑いへの道に進むきっかけとなった出来事とは?

志村けんさんが、お笑いの道へ進むきっかけとは?

小学校3年生の時の出来事が転機となります。

徒競走の時に、トイレを行きたくなった志村けんさんは、徒競走の時に我慢できなくなって大の方を漏らしてしまったというのです。

その時ついたあだ名が「うんこ漏らし」というものでした。

そのあだ名をふっしょくするためにどうしたらよいか?

いじめられないために取った行動が、クラスのひょうきんものを演じるようになったそうです。酔っぱらいのまねをしてうけていたといいます。

ラジオ体操の時、まったく逆の動きをしたりしてみんなを笑わせることに快感を覚えたそうです。

昭和30年代のテレビの普及で、喜劇番組をみていたら、厳格な父が笑った。父を笑わせる人がすごいと感じた志村けんは、お笑いを目指すことになります。

中学生になって、志村けんの父は、校長をめざし昇進試験の勉強ばかりしていたそうです。

そんな父をみていて、つまらない人生だなと感じた志村けんさんは、芸能界を目指すことに。

家の近くで大きな音がして見に行くと、バイクが倒れていたそうです。よく見たら父がバイクで転倒して頭を打ったというのです。

父の事故から3年が経ち、この時46歳で事故の後遺症で記憶障害になってしまったそうです。脳内出血で脳を圧迫したことによる記憶障害を発生したといいます。

高校の時に、ビートルズにあこがれマッシュルームヘアにしていました。そんなビートルズが日本へ来日することに。

クラスの女の子が、武道館コンサートのチケットがあったのを知って何とか無茶苦茶な理由で説得して、そのチケットを譲ってもらってコンサートに行ったというのです。

ドリフターズに入るきっかけになった出来事は、志村けんさんが高校3年生の進学を決める時、兄二人は大学へ進み市役所勤務。

大好きな音楽と笑いでドリフターズに弟子入りすることを決めたそうです。雑誌で調べたいかりや長介さんの住所を調べ、アポなし訪問をしたそうです。

不在だったため雪の中12時間待っていると、いかりやさんが帰宅したのを確認し、再度付き人を志願したそうです。

するとその姿を見たいかりやさんは、「今やめそうなのが一人るから、辞めたら連絡する」と言ってくれたそうです。

1週間後電話があって後楽園ホールへ来るように言われたそうです。

まだ高校生だった志村けんは、すぐにいかりやさんの付き人を始めたそうです。その時志村けんの父は、病状はひどくなって、近所を徘徊するなどしていたといいます。

母は、「お父さんのことは気にしなくていいから」と言ってくれたおかげで、父の名前のケンジのけんを取って芸名を「志村けん」としたそうです。

ドリフターズの付き人をはじめてからは?

早朝から深夜までドリフターズの身の回りの世話をしていたそうです。

「今に見てろ」と決意を移動中の新幹線の窓ガラスに書いて頑張ったそうです。

付き人をしながら、コントづくりのノウハウを学んでいき、いかりやさんに頼んで、22歳の時コンビ「マックボンボン」を組んだそうです。

コンビが人気が出て、1年足らずレギュラー番組を持つことになったそうです。

そんな中、父が亡くなったと連絡が。54歳だったそうです。

コンビが解消することになり、またコンビを組みやりますが合わなくて、ドリフターズの付き人になることに。

突然荒井注が抜けることになり、みんなで話し合った結果、志村けんが代わりにメンバーに入ることに。

体力の限界で荒井注さんが抜けるという事でした。

なぜ志村けんを抜擢したのか?「貪欲に笑いを盗もうとしていたり、作ろうとしていた」姿をみてメンバーに入れたそうです。

ザ・ドリフターズの「8時だよ。全員集合!」のテロップにも「見習い 志村けん」と出ていました。

なかなか笑いが取れないことでプレッシャーを感じていた志村けんといかりやさんは、2人でよく話し合っていたそうです。

いかりやさんの家に泊まっての話し合い。志村けんさんは努力の天才だった!

東村山音頭できっかけをつかんだ志村けんさんは、ブレークし続けることに。ハトヤの歌やひげダンス、カラスの勝手でしょなどヒットを連発!

なまむぎ なまごめ なまたまご」など早口言葉の歌もヒットしました。

ばか殿キャラクターも誕生し、土曜8時不動の時代を作りました。

志村けんにとって、いかりやさんへの想いは?

16年続いた「8時だよ。全員集合!」は、綿密な会議「木曜会議」を経ていかりやさんがオッケーを出すまで帰れないという過酷なものでした。

だからこそあれだけの計算されたコントが出来上がったいたのでしょう。しかも生放送でした。

「5人でつくる笑い、誰が目立ってもいけない」といかりやさんは言っていたそうです。

裏番組が台頭する中、いかりやさんの元気もなくなり、木曜会議にも遅れてくるように、志村けんに任せることもあったそうです。

そんな中、地方に行ったとき、いかりやさんから飲みに誘われて、「俺はもうしんどいんだよ。お前がドリフをまとめてくないかな?」と言われたそうです。

いかりやさんも子供が生まれ、客席からゴリラ死ねとか言われるとつらかったそうです。

 

8時だよ。全員集合!」が終わることをプロデューサーから志村に告げられ、後番組に加藤茶と二人でするように言われたそうです。

その番組が「加トちゃんケンちゃん、ごきげんテレビ」でした。

志村けん名言!

「すいませんから始まる1日は嫌だ」

「一つのことを大切にやり続けろ」

いかりや長介さん、長男の話

役者に転してからも、志村けんのことを気にかけ、志村けんが出る番組を録画してチェックしていたそうです。

いつも気にかけ心配をしていたということです。

いかりやさんが亡くなる3か月前に、志村けんの一人の舞台を内緒で見に行ったそうです。

いかりやさん最後のメモに書かれていた内容とは?

加藤がえらい!志村がえらい!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。